History稚加榮の歴史

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博多料亭稚加榮 60年の歩み

創業

稚加榮の飲食店としての前身はうどん屋でした。 創業者・田原聖寶は戦争から帰ってきた後、西公園の生家を改装し、母の「マル」、妻の「富江」から名をとり、丸富うどんという店を開店しました。
当時も今も西公園は花見客や行楽客が多く、うどんだけでなく甘酒やかき氷など季節に合わせた商材を提供することで店はかなり賑わっていたそうです。

昭和36年

聖寶の次の挑戦は「家庭では食べられないもの」を提供する豪華な店作りでした。
福岡の炭鉱王・中島徳松の持ち家を政治家・亀井 光氏の紹介の元購入し、当時はまだ一般に冷蔵庫が普及しておらず、肉料理はあまり家庭では一般的ではなかったため、鳥料理の店として「稚加榮」を創業しました。
しかし、冷蔵庫の普及と共に家庭での肉料理は徐々に一般的となってきました。
そこで聖寶会長は次の施策として家庭では将来的にも一般的になり得ないであろう活魚料理を次の目標としたのでした。

昭和39年

店舗展開は福岡市だけにとどまらず、北九州の小倉と八幡に福岡本店と変わらぬ生け簀を設けた支店をそれぞれ開業いたしました。
小倉店は小倉の繁華街の真ん中に作られ、小振りなのを活かして、庭木や建物内の意匠は福岡店以上にこだわった増築として建てられました。
八幡店では広い土地を生かして池のある日本庭園を設けツツジが咲き誇る時期にはツツジ祭りなどの記念行事などを行っておりました。

昭和48年

店舗を改装し中央に生け簀を設け、中から接客が出来るカウンターを兼ね備えた料亭として営業を再開しました。
同時に料亭としては他がほとんど行っていなかったランチ営業を行うことで、料亭としての敷居を下げ、親しみある店舗運営の土俵を創りあげました。

昭和55年

その後、聖寶会長は再び福岡店に大規模な増改築を行い、国内最大級の生簀カウンターや結婚式場を設け、現在のほぼ変わらぬかたちとして稚加榮を新装開店させました。特に生け簀が大きくなったことで、九州では有名なアラ(クエ)の大きなものを何尾も泳がせることが出来、大相撲の九州場所では当料亭で食べるアラ料理が九州に来る楽しみになったと力士の皆様に懇意にしていただけるようになりました。
連日多くのお客様に来ていただき、魚をさばくスピードを上げなければならず、おまけに調理台も幅広くなったため、隣、隣の人にも迅速に魚を渡していくという必要性に駆られて、当料亭で有名な魚投げのスタイルがこのときに誕生いたしました。

昭和59年

玉康現会長のアイデアで、辛子明太子を中心とした物販事業を始めた年です。
最初は試行錯誤を重ね失敗も多かったようですが、出汁や粒子感にこだわった料亭としての味の追求を続け、今では全国から問い合わせが来るほど評判の商材となり、稚加榮の営業の一つの大きな柱となりました。
また、正也専務のアイデアから生まれた和牛肉まんも、これまでにない高級感のある新しい肉まんとして評判となり、今日まで売り上げを伸ばし続けているヒット商品となりました。

平成元年

平成に入って聖寶会長の次の構想から、福岡店の横に洋風建築の「稚加榮新館」をつくり、焼き肉を中心とした洋風レストランを運営しました。
館内は大理石を敷き詰め、婚礼会場やクラブを併設し、多いときでは一日300人ものお客様が昼夜と訪れました。